その頃の家には雨戸があって、朝になると隙間から一筋の光が入ってきた。トタン葺きの庇の上をスズメが跳ね回り、チュンチュンと朝からにぎやかだった。金属製のサッシはなくてすべて木製の引き戸だった。窓を閉めていても外の気配はありありとわかる。最近は省エネルギーのために高気密・高断熱の家が多くなってきた。そうすると遮音性も高くなり、外の音も聞こえなく傾向にある。騒々しい地域では、それは静かな居住環境の形成ということになるので望ましいことである。そういった場合には一石二鳥といえる。しかし、周囲がある程度良好な環境を保っている地域では、自然環境との距離が離れてしまうことになる。最も身近な環境教育を手放しているとも言える。建築環境工学が私の専門でもあるので、地球レベルの環境保全につながることは大いに勧めるべきだと思う。ただ、単純に省エネルギーという視点からだけで住宅を考えるのは、何か重大なところを見失っているような気がする。つまり住宅というのは環境感といったようなものも育むところであって、ただ快適に暮らせればよいというものではないということである。このあたりを両立させるような方法はないものだろうか。
私が生まれ育った横浜では、ゴミ収集車があるときから音楽を鳴らすようになった。スコットランド民謡「故郷の空」のメロディーだったと思う。昭和40年代から「ヨコハマさわやかさん」というオリジナルの歌を流すようになった。確か、歌詞を市民から公募し、それにプロの作曲家が曲をつけたものだ。最初は歌を流しながら来たが、後に歌ではなくオルゴールのような音のメロディーだけになった。さらに現在は、クレイジーケンバンドの「いいね!横浜G30(ゴミゼロ)」と、3種類の音を使い分けているようである。これらの音が聞こえてくるとあわててごみを出しに走るという方が少なからずいるようである。合図の音として機能的な意味を持っている。
何かが来たことを知らせる合図の音としては、ほかにもいろいろある。ちり紙交換車の「毎度おなじみちり紙交換・・・・」の声はオイルショックの頃にもっとも盛んであった。ちり紙交換の他にも、スピーカーを車の上に積んでテープ再生音声や音楽を流しながら商売をしている車は、バブル時代まではかなり多かったと思うが、最近はめっきり減っているように感じる。それでも忘れたころに竿竹屋さんが「たけやー、さおだけ」と近所に来たりする(※)。
車に積んだトランペットスピーカーの声にはあまり郷愁を感じないが、私の少年時代(高度経済成長の時代)の前からある生の声や笛の類には懐かしさが募る。空の色が少し赤く色づく時刻になると、どこからともなく豆腐屋さんが自転車に乗ってやってきた。豆腐の入った重たそうな木のケースを荷台につけて、ユラリユラリと自転車をこいでいた。「パーァ、プーゥ」とユーモラスなような、それでいてもの悲しげなラッパ。もう何十年も聞いていない音だ。このラッパを作っていたのは宮本喇叭(らっぱ)製作所(東京都足立区)というらしい。現在は廃業してしまったという。懐かしいと思う人にとって、宮本ラッパはいまや貴重品だろう。
夏休みにはいると毎朝ラジオ体操に出かけた。6時半より少し前に「カラン、カラン」と振り鐘を鳴らす音が、「今日もラジオ体操始めるぞ」という合図だ。雨の日は鐘が響かない。たまに寝坊をして、鐘の音で目を覚ます。この音はいつからどこで始まったのかわからないが、今でも各地で続いている様子だ。私が現在住んでいる石川県でもやはり鐘を鳴らしている。ラジオ体操のような地区の行事というのは、経済状況に左右されないので、長く続いているのだろうか。
鐘といえば、何日かに一度、近所に八百屋の露天商が来た。その合図にトラックの運転席から腕を出して鐘を振っていた。この鐘も鐘自体は同じものである。金沢では豆腐を売り歩いている豆腐店がいまだに健在である。木製の小ぶりな大八のような車を曳き、金沢の路地を、結構な速さで歩いていく。しかし、こちらではラッパは吹かない。引き手のところに振鐘がくくりつけてあり、歩調に合わせてリズミカルに鳴る。この鐘もラジオ体操の鐘と同じである。まったく同じ音なのに、状況いよって音の意味がまるで変わってしまう。朝早く鳴る鐘は「ラジオ体操」の鐘で、昼間に鳴る鐘は「八百屋さん」。金沢では「豆腐屋さん」。同じ音でも、いろいろな意味を持っていて、地域と時代ごとに移ろっていく。移ろいは世の習いとしても、愛すべき音はいつまでも残ってほしいと思う。 (つちだ よしお)
※山田真也著「さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学」などという本がベストセラーになっているらしいが、確かに竿竹屋はしぶとく生き残り、あの売り声も変わらないで残っている。
http://wwwr.kanazawa-it.ac.jp/~tsuchida/
金沢工業大学 環境・建築学部 教授 博士(工学)
音環境・景観の認識における音の影響等を中心として研究に取り組んでいる。また人間の五感の感性をはぐくむためのワークショップにも関心を持ち、まちづくりの専門家とも協働して取り組んでいる。人間の認識の解明を空間作りに生かすことを目指したいと思う。
主な著書:「建築と環境のサウンドライブラリ(書籍版およびDVD) 」(日本建築学会編・共著、技報堂、2004年)、「人間計測ハンドブック」(産業技術総合研究所 人間福祉医工学研究部門編・共著、朝倉書店、2003年)、「建築空間のヒューマナイジング・環境心理による人間空間の創造」 (日本建築学会編・共著、彰国社、2001年)、「建築設計資料集成[総合編]」(日本建築学会編・共著、丸善、2001年)、「印象の工学とは何か」(大澤光編・共著、丸善プラネット、2000年)、「人間環境学」(日本建築学会編・共著、朝倉書店、1998年)など。
日本建築学会、日本音響学会、日本騒音制御工学会、日本デザイン学会、日本感性工学会、日本人間工学会、日本サウンドスケープ協会、日本都市計画学会、都市環境デザイン会議、各会員。